グイノ神父の説教
 
2027年

B年

待降節と四旬節


   

待降節第1主日
待降節第2主日
待降節第3主日
待降節第4主日
クリスマス(夜のミサ)


    待降節第1主日  B年   2026-11-29   グイノ・ジェラール神父

      イザヤ 63・15-17、19、64・2-7    1コリント1・1-9    マルコ13・33-37

 私たちは、幸せに生きるために必要なすべてのものを、神からいただいています。待降節の第一主日にあたり、聖パウロは、私たちには何一つ霊的な恵みが欠けていないこと、そして、神を知ることによって与えられる豊かな恵みが、私たちの人生を満たしてくれることを思い起こさせています。私たちは、本当にそのことを信じているでしょうか。そして、神に感謝をささげることができているでしょうか。

私たちが洗礼を受けたその日、神は私たちの心に、ご自分の愛の力と、その愛に伴うすべての霊的な恵みを注いでくださいました。私たちは、いのちを与える神のみ言葉であるイエスを受け入れることによって、聖霊を通して、三位一体の神のあわれみ深い愛の神秘へと導き入れられました。信仰によって、私たちはキリストと結ばれ、キリストが持っておられるすべてのもの、そしてキリストが与えてくださるすべてのもの、すなわち、キリストのいのちそのものを分かち合っていることを知っています。なぜなら、私たちは本当にキリストのからだの一部だからです(参照;1コリント12・27)。そして、何ものも私たちをキリストの愛から引き離すことはできません(参照:ローマ8・35-39)。

ですから、私たちは信仰と希望のうちに、目を覚ましていなければなりません。今日の福音の中で、イエスはまさにそのことを私たちに求めておられます。「目を覚ましていなさい」。待降節は、もちろんキリストのご降誕を迎える準備の時です。しかし、それ以上に、イエスにいっそう近づき、その存在に気づき、心をその愛に開くよう招かれる時でもあります。イエスはすでに、私たちのただ中におられます。いつも私たちとともに歩み、導き、その存在によって私たちを照らしてくださっています。しかし、私たちは、その存在に気づけないことがあります。だからこそ、待降節は、より深くイエスに心を向け、信仰の目を開き、主の声に耳を傾けるよう、私たちを招いているのです。

祈り、ゆるしの秘跡(告解)、黙想会、あるいはイエスとともに過ごす静かなひとときは、私たちがこの待降節を、主とのより深い親しさのうちに生きる助けとなります。イエスを覆っているベールが、私たちの目の前で少しずつ取り除かれるためには、それほど大きなことは必要ないのかもしれません。神に心を開けば開くほど、私たちは人生の中にある神の現存と愛、そして恵みのしるしを、より深く見いだすことができるようになるのです。

イエスは私たちの神です。私たちは、神の御手の中にある粘土です。陶器師である神は、その粘土を最も美しい形に造ろうとしておられます(参照:イザヤ64・7)。

ですから、信頼をもって、イエスに私たちを形づくっていただきましょう。そして、ますますイエスの姿に似た者へと、私たちを変えていただきましょう。この待降節の時に、特に、目覚めた心を与えてくださるよう、イエスに願いましょう。それは、イエスを待ち望み、イエスに気づき、そしてイエスを心に迎え入れることのできる心です。また、イエスの母であり、私たちの母でもある聖マリアの祈りと取り次ぎを願いましょう。私たちの心の中にイエスのための場所を準備することができるように、マリアは必ず、私たちを助けてくださいます。アーメン。

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        待降節第2主日   B 年 2026年12月6日   グイノ・ジェラール神父

            イザヤ40・1-11      2ペトロ3・8-14      マルコ1・1-8 

御子イエスを私たちにお与えくださることによって、神は私たちを慰め、励まし、そして最終的には救ってくださいます。心から悔い改める人に神が与えてくださる赦しは、この神の慰めを目に見える形で示すものです。

神が与えてくださる赦しは、私たちの中で曲がっているもの、歪んでいるもの、道からそれているものを正してくださいます。この赦しは、私たちの苦難の道を平らにし、深い苦しみを潤し、人には見えない心の奥深くの傷を癒やしてくださいます。神の慰めには、一つの名前があります。それは聖霊です。 

神は、その大いなる憐れみによって、一人ひとりに回心するための時間を与えてくださいます。それは、日々の生活の中で、神がともにいてくださるしるしを、もう一度見いだすための時間です。私たちは、決してこの事実を忘れてはなりません。つまり、私たちの命は、キリストとともに神のうちに隠されているのです(参照:コロサイ3・3)。だからこそ、聖パウロは、私たちは神の聖なる神殿であるのだから、自分自身をどれほど大切にしなければならないか、また、どのような聖なる生活を目指し、その生き方を周りの人々に示していかなければならないかを、私たちに思い起こさせています。 

私たちが受けた洗礼は、罪のゆるしを受けるための回心の洗礼です。しかし、それだけではありません。洗礼は、私たちを神と結び合わせ、聖霊の豊かな恵みで満たし、聖なる者としてくださる洗礼でもあります。預言者イザヤはこう語りました。
「見よ、主なる神は力をもって来られる。羊飼いのように、その群れを養われる。」
洗礼者ヨハネもまた、この喜びと希望に満ちた言葉を繰り返して言います。「私の後から、私よりも力のある方が来られる。その方は、あなたがたに聖霊によって洗礼を授けてくださる。」 

私たちも彼らに続いて、恐れることなく、周りの人々にこう告げましょう。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。主は道であり、真理であり、命です。主は私たちの救い主であり、私たちの神です。」私たちのキリスト者としての生活は、キリストとの一致のうちにこそ、本当の深さを見いだすことができます。

待降節を一日、また一日、過ごすたびに、私たちは信仰のうちに、私たちの生活の中で、私たちの社会の中で、そして私たちの世界の中で、主の道を準備しなければならないことを、より深く理解するようになります。私たちの信仰の証しと祈りによって、私たち自身が、人々を神へと導く道となることができるのです。神のゆるしを繰り返しいただくことによって、私たちの証しはますます輝くものとなり、私たちは偽ることなく、こう言うことができるようになります。「私にとって、生きることはキリストです」(参照フィリピ1・21)。なぜなら、キリストは、私たちの人生に意味を与えてくださるだけの方なのではありません。キリストご自身が、私たちの存在全体の中心であり、その源とならなければならないからです。アーメン。

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      待降節第3主日  B年  2026年12月13日   グイノ・ジェラール神父

        イザヤ61・1-2、10-11   1 テサロニケ 5・16-24   ヨハネ 1・6-8、19-28 

主の訪れは、長く眠れない夜を終わらせる夜明けのようなものです。光が現れると、私たちの心には少しずつ希望と明るい気持ちが生まれ、心の中から神への賛美の祈りが湧き上がります。そして、その祈りは私たちを喜びで満たしてくれます。私たちの人生に主が来てくださることは、光と希望をもたらし、心を明るく照らしてくださる喜びの泉です。 

待降節第3主日は、「喜びの主日」と呼ばれています。それは、ミサの入祭唱の最初の言葉が、「主において、いつも喜びなさい。主は近くにおられます」(参照:フィリピ4・4)という言葉で始まるからです。そのため、教会の典礼では、待降節の紫色に代わって、伝統的にバラ色の祭服を用いられます。この色は、夜明けの光と、待降節の歩みの中で少しずつ現れてくる喜びを表しています。 

ですから、恐れることなく、神と教会が私たちに招いてくださっているこの喜びの中に入りましょう。何ものによっても、私たちの心を乱されないようにしましょう。心からすべての不安を追い払い、私たちを救うために来てくださるイエスに目を向け、信頼を持って歩みましょう。今日、神が私たちに与えようとしてくださる平和によって、私たちの心から賛美と感謝の祈りが湧き上がりますように。預言者イザヤも、私たちをこの喜びへと招いています。「わたしは主によって喜び、わが魂は神によって喜び踊る」(参照:イザヤ61・10)。 

私たちもまた、お互いにとって喜びの泉となりましょう。私たちの町を美しく飾るクリスマスのイルミネーションや、店の中で一日中聞こえてくるクリスマスの歌は、クリスマスが近づいていることを私たちに思い出させてくれます。しかし、このような目に見えるしるしだけではありません。「イエスがすぐ近くまで来てくださっている。そして、私たちに会うために来てくださる」という喜びと平和を、私たちの心の中に保つ助けにもなります。 

神に愛されている兄弟姉妹の皆さん、聖パウロの言葉を心に受け入れ、それを深く生きていきましょう。「「主において、いつも喜びなさい...あなたがたの親切がすべての人に知られるようにしなさい。主は近くにおられます。何事も思い煩ってはいけません。どんな場合にも、祈りと願いによって、感謝を込めて、あなたがたの願いを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってくださいます。」(参照:フィリピ4・4~7)。アーメン。

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     待降節第4主日 B年 2026年12月20日   グイノ・ジェラール神父

        2サムエル7・5、8-12、4・16   ローマ16・25-27    ルカ1・26-38 

 待降節は、私たちの心の中に神様のための住まいを用意するよう、私たちを招く時です。ダビデと聖母マリアは、その模範を私たちに示しています。私たちの内に、神をお迎えし、その御前に留まることのできる聖なる場所をつくることが大切です。神は私たちの内に住まわれ、私たちも神の内に留まることを望んでおられます。

もちろん、私たちの生活の中に神がお住まいになる場所をつくることは、簡単なことではありません。それは、ダビデにとっても、マリアにとっても同じことでした。それでも、神のみ言葉は私たちを安心させ、励ましてくださいます。「恐れてはならない。わたしがあなたと共にいて、あなたを救う」(参照:エレミヤ1・8)。実は、預言者ナタンがダビデに語ったように、神ご自身がご自分の住まいを建ててくださるのです。詩編も、私たちにこう思い起こさせています。「主が家を建ててくださるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(参照:詩編126・1)。

クリスマスはもうすぐです。私たちは皆、年末の祝いの準備でとても忙しくしています。しかし、まだ心の準備ができていないなら、何よりもまず、神の助けをいただきながら、急いで自分の心を整えましょう。私たちを訪れてくださるイエス様を、私たちの心の中に温かくお迎えするためです。

ダビデとマリアに倣うなら、私たちの人生にも、すばらしいことが起こり、大きな恵みが与えられることを、私たちは知っています。神が誰かを訪れてくださるとき、決して手ぶらで来られることはありません。神に心を開く人には、神の慈しみは豊かに注がれます。

父なる神に、私たちの信仰と希望を強めてくださるよう願いましょう。聖霊が私たちの目と心、そして知恵を照らし、私たちの生活の中に現れている神様の存在のしるしを見つけることができるようにしてくださいますように。イエスのみ言葉が、天の喜びと恵みをもって私たちの魂を養い、神への飢えと渇きを私たちの内にますます深めてくださいますように。

待降節最後の日曜日にあたり、私たちもマリアと同じように、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言うことができるよう、マリアに願いましょう。マリアに倣い、私たちの心が、イエスがお生まれになり、そこにとどまり、そして成長してくださる住まいとなりますように。 

「主イエスよ、クリスマスはもうすぐです。どうか私たちの内に来て、お住まいください。私たちの心を開いてください。そして、私たちの人生を、あなたの愛を受け入れ、人々と分かち合い、人々に与えることのできる住まいとしてください。アーメン」。

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    クリスマス(夜のミサ) B年  2026年12月24日  グイノ・ジェラール神父

              イザヤ9・1~6    テトス 2・11~14    ルカ2・1~14 

歓喜、大きな喜び、揺るぎない愛、神の恵み、平和、すべての人の救い、良い知らせ、光、そして栄光。これらの言葉が、クリスマスの朗読の中で響いています。

これらの言葉は、私たちの信仰を養い、生まれたばかりの救い主を私たちの心に迎え入れることができるように導いてくれます。今夜、神の光と栄光が私たちを包み込み、神の平和と、聖母マリアの心から溢れ出る喜びが、私たちを満たしてくれます。 

皆さん、喜びに満ちた、聖なるクリスマスをお迎えください!喜びに輝きながら、私たちの贖い主イエス・キリストの誕生という神秘を祝いましょう。神である父が、私たちを愛する御子イエスと結び合わせてくださった、このすばらしい恵みを、深く味わうことができますように。そして、聖霊が、ベツレヘムの羊飼いたちに天使たちが告げた平和を、この地上と私たちの心に豊かに注いでくださいますように。

生まれたばかりのイエスは、肉となった神のみ言葉です。イエスは、私たち人間の姿をとられた神の光です。イエスは、私たちの世界の中にひそかに働くパン種のような存在となり、私たちをあらゆる悪から解放し、癒し、新しくし、救ってくださいます。イエスは、私たちを神と和解させるためにお生れになりました。それは、私たちがイエスのうちにとどまり、イエスもまた、私たちのうちにとどまってくださるためです。 

イエスの誕生以来、私たちの歴史の歩みは変わりました。今では、「キリスト以前」を「紀元前」、「キリスト以後」を「紀元後」と呼ぶほどです。神は、そのみ言葉によって、この世界とそこにあるすべてのものをお造りになりました。それにも関わらず、神が、イスラエルという小さな土地で、ローマ人に支配されていた人々の間に生きることを望まれました。栄光の王である神は、豊かな宮殿ではなく、貧しい馬小屋と飼い葉桶を選び、私たちのところへ来てくださいました。

このように、神のへりくだりが、私たちの豊かさとなったのです。聖パウロはこう言っています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためです」(参照:2コリント8・9)。 

今夜、ベツレヘムの羊飼いたちとともに、私たちも飼い葉桶のそばへ近づきましょう。神は不思議で珍しい、特別なしるしによってご自身を現されるのではなく、幼子の貧しさ、素朴さ、謙遜さをもって、ご自身を私たちに与え、私たちのもとへ来てくださったことを、羊飼いたちと共に発見しましょう。日々の小さな出来事の中や、毎日の生活の中で与えられる何気ない出会いの中に、神を見いだすことを学びましょう。 

この聖なる夜、心を大きく開いて、イエスを迎え入れましょう。イエスの光を、私たちの暗闇の中に、イエスの平和を、私たちの不安の中に迎えましょう。イエスの愛が、私たちの傷ついた心の中に、そしてイエスの喜びが、私たちの人生の中に注がれるようにしましょう。 イエスの誕生によって、私たちの希望が新たにされ、信仰が強められますように。天使たちと共に、ためらうことなく次のように宣言する、喜びにあふれた証人となりますように。「いと高きところには神に栄光、地には、御心に適う人々に平和。」アーメン。 

                       



 

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